[株式会社八越し]小林純平さん

まだ朝もやのただよう、富士見町の畑。小雨もパラつくなか、その人はきびきびと動き、慣れた手つきでレタスの苗を植えていました。時折仲間と談笑をしながらも、苗を扱うときは慎重に、丁寧に。足元はずいぶんとぬかるんでいるけれど、そのいきいきとした姿を見ていると、「農業って、楽しそう」、そんな思いが自然と湧いてきます。

畑に向き合えば、「意味」が見えてくる

長野県駒ヶ根市出身の小林純平さん。大阪、そして東京での暮らしを経て2022年、生まれ故郷の長野県へ暮らしの拠点を移しました。現在は富士見町に暮らし、農業法人「株式会社八越し(やつごし)」に勤務、2年目の春を迎えました。

高原野菜や穀物の栽培・収穫の全般を行う同社で、生産メンバーの一人として汗を流す、八越しでの日々。取材に訪れた春先はまだ閑散期ですが、畑の管理や苗の植え付けをしたり、ときには提携先の農業法人へ出向いて苗作りの仕事にも携わっています。

「レタスの収穫がはじまる初夏からは、深夜3時から仕事になる時期もあります。思っていた以上に身体はキツいけど、『知りたい』『身につけたい』という気持ちで畑に向き合っていると、おもしろいんです。たとえば、苗を手で植えるときにもどのくらいの力加減かを意識してみると、『こうすれば根付きやすいんだ』という風に、『植える』という動作ひとつひとつの『意味』が見えてくるんです」

陸上選手、パン職人、そして農業を学ぶ
人生3回目の修行の理由

これまで農業の経験はまったくと言って良いほどなかったという小林さん。働きながら農業を学ぶことができないかと全国の農業関連の求人を調べるなかで出合ったのが、「農業法人」の存在でした。

なかでも「株式会社八越し」は、未経験者も積極的に採用し、将来の独立も応援していること、そして代表の久保夫妻と比較的世代が近かったことが、応募の決め手になったと話します。

「未経験でも受け入れてくれて、安定した仕事として農業を学ぶことができる、自分にとって本当にありがたい職場です。さっき、作業が深夜3時スタートと言いましたが、そういう日は仕事の終わりもちゃんと早くなります。パン屋の仕事をしていたときのほうが、確実に長時間労働になりがちでしたね」

そう、小林さんの前職はパン職人。その道を志したきっかけには、そのさらに前に自身が力を注いでいた、駅伝部でのある思い出が関わっているそう。

「中学を卒業したあと、長野県の陸上がさかんな高校に進み、駅伝部に所属して寮生活をしていたんです。そのとき、1週間に一度だけ、パンの日があって。それが部員にとっても僕にとっても『ご馳走の日』だったんです。他のメンバーは単なる食べるだけの楽しみだったと思いますが、自分にとってはその時間がすごく心に残ってるんです。卒業を控え、将来を考えたとき、『みんなに喜んでもらえる仕事に就きたい、そうだ!パン屋になろう』と思ったんです」

高校卒業後は専門学校へ進み、パン職人として研鑽を重ねた20代。大阪と東京という大都市圏での激務をこなし、順調に経験を積み、結婚を機に、気持ちに変化が生じていきます。

「パンはずっと焼きたい、いつか自分のお店を持ちたい。その気持ちは今でもあるんです。東京のパン屋で働いていたときに出会った妻とも、そのことはよく話をしています。けれどそれと同時に、パン職人として自分が扱ってきた『食材』を生産している農家の方たちの気持ちも汲み取ってパンづくりがしたいと思うようになったんです。しかも、ただ『汲み取る』と言葉でいうだけでは足りない、一度はちゃんと、野菜を『育てる』側に回りたい、そう考えるようになっていきました」

パン職人時代の小林さん(写真:小林さん提供)

いつか、子どもといっしょに農業ができたら

パン職人として働いたことで、その先にある「農業」への関心を深めていった小林さん。さらにもう一つ、この同時期に第一子が誕生したことも、小林さんの背中を強く後押ししたのだそう。

「出産前の健診中から、『生まれてくるお子さんには障がいがあるかもしれません』、と言われていました。そして誕生後、先天性の心臓疾患があることがわかりました。子どもが将来、どんなふうに生きていくのが良いかを考えるなかで知ったのが、山梨県に小麦から栽培して製粉までしている障がい者施設でした。障がいがあっても、働ける場所があることに希望を感じたのと同時に、子どもが大きくなったときに自分もいっしょにサポートをできるように、やっぱり農業を学んでおきたいという気持ちになりました」

さまざまなタイミングや想いがぴったりと合致して、富士見町で「農業」という人生3回目の修行の日々が始まりました。最初は法人代表である久保夫妻から手ほどきを受けるほか、先輩スタッフたち、海外からの農業実習生のみなさんにも積極的に質問し、まさにゼロから野菜づくりを学んでいるところだそう。

移住のきっかけとなった八越し代表の久保夫妻と(写真:小林さん提供)

「最初はとにかく、その日言われた仕事に取り組む、という日々。そんな時間を重ねてようやく最近、1年の流れが見えてきたところです。作業は学びだらけだけれど、やっぱり自分で育てた野菜はおいしい!  パン屋として10年間修行をしたので、30代は農業できちんと経験を重ねていきたいんです」

長野県の出身ながら、富士見町での暮らしは今回がはじめてという小林さん。住み心地はいかがでしょう?

「10年ぶりの長野暮らしなんですが、やっぱり自然が美しいですよね。『長野ってこんなに自然豊かな場所だったんだ』って、あらためて感じています。ここは、僕の地元の駒ヶ根市からは見えない富士山が見えるし、季節ごとに変化する八ヶ岳の景観も美しい。子どもの疾患で、まだあまり遠出はできないんですが、近くに公園など、憩いの場がたくさんあるのがありがたい。妻も自然が好きなので、気に入っているみたいです。

引っ越しにあたり、富士見町独自の就業・移住支援(富士見町就業・創業移住支援制度)の制度がたくさん利用できたのも、本当にありがたかったですね。実は、僕より先に兄が東京から地元に戻ったのですが『いろいろ制度が利用できるよ』と教えてくれたおかげで、自分も情報をキャッチすることができました。まだまだ、知らない人は多いんじゃないかな」

ゆとりをもって未来を描けば広く周りが見えてくる

生産者として2回目の季節がめぐろうとする今。この先の夢についてお聞きすると「いろいろあるんです、だからあえて決めていないんです」との答えが。それって、どういう意味ですか?

「前の職場を辞めたとき、『もし今、自分の店を持ったらずっとその場所を守る人生になるのかな、と思ったんですね。仕事ということでいうと、30代、40代はキャリアをしっかりと積み重ねなければいけない時期かもしれない。でも、そういう流れにとらわれすぎず、自分らしく余裕をもった考えをしてもいいかな、と思って。

たとえば、お店を持つのが60歳になってもいい。そう考えると60歳になるまでの30年余裕ができるように感じられて、ゆとりをもって周りが見えてくる。『パンを焼きながら野菜も小麦も育てられたらいいかも』『農福連携の畑なら、どんな作物いいかな』とか、あれこれ思いめぐらせながら、今は農業をしっかり身につけて、しなやかに生きる力を蓄えていきたいです」

株式会社八越し(やつごし)
愛知県からの移住者で代表の久保希世さんが地域での研修を経て独立。町内の標高1000m前後の圃場でレタス・キャベツ・ブロッコリー・白菜などの高原野菜をはじめ、大豆・小麦などの穀類を栽培から出荷まで、一貫して行っている。

八越しが利用した支援制度はコチラ↓
富士見町就業・創業移住支援制度
富士見町では企業などの担い手不足解消、および地域課題の解決並びに移住の促進を図るため、東京圏(埼玉県、千葉県、東京都及び神奈川県の区域)および、愛知県、または大阪府から富士見町に移住し、一定の要件を満たした人に移住支援金を支給。

(記載の内容は全て取材時点の情報です)